成長と共にインプットされる偏見
こんにちはAbbyです。ご訪問ありがとうございます。
かつてシカゴ郊外のとある幼稚園、小学校に行く機会がありました。そこでは、様々な人種の子供達が楽しそうに遊んでいました。考えてみると、子供の頃は、遊び友達の人種は全く関係ありません。そこには日本から来た駐在の子女がいて、言葉もままなりませんでしたが、一緒に駆け回っているところを見て感動しました。
やがて年齢が上がると、まずは言葉の壁、次はその年齢に至るまでに見聞した大人からの偏見がインプットされ、程なく子供たちはグループを作るようになります。
ある知人が会社で、会社による人種差別の事実を目撃し上司に報告したところ、翌日解雇になりました。知人は白人で、差別を受けたのはアジア人とメキシコ人のようです。この件は、今も会社に対するクラスアクション(グループで会社を相手取って訴訟を起こすこと。)が継続しています。1審で会社の非(会社の人種差別と不当解雇)が認められ、数百万単位の支払いが会社に課せられたそうです。それを聞いた他の社員も、自らの経験を開示してクラスアクションに加わり、どうやら2審に持ち込み数千万単位の当初からの要求を通す勢いだそうです。これは米国の話ですが、こうして闘って不公平を駆逐している勇気に感心します。一方そうした闘いが、今も続いているということも事実です。米国の経営者は、人種に関しては本当に配慮する方が多い中で、やはりまだこうした古い企業もあるということなのでしょう。
成長と共に偏見はインプットされるものですが、この知人は偏見に染まらない自身の信条があり、強い人だなと感じます。ですが私が会った海外の人々には、この強さを持っている方が多いと感じます。宗教のためなのか、環境なのか、文化なのか、司法のパワーなのか、それら全てなのか、と考えています。